農作物としての大麻は、戦後GHQの占領政策により、1948年7月10日に大麻取締法が制定され、栽培免許制がスタートしました。農水省の大麻の担当部署(特産課)は、この前後の経緯を「特産課特産会二十五年誌(1963年発行)」に残しています。貴重な歴史的資料なので、全文を公開することで、少しでもこの法律制定の経緯を知って頂ければと思います。
大麻取締法の制定
タイマの戦後行政において特筆すべきは、日本産タイマにも麻薬を含有するという理由により、「大麻取締法」が制定されたことである。わが国におけるタイマは、戦前から、もっぱら繊維採取を目的として栽培され、ことに戦時中は軍需作物として、増産の要請もあったため、作付面積は、15000ヘクタールに達した。
しかし、終戦とともに、軍需としての用途を失ったこともあるが、それにもまして、連合軍総司令部から「日本産タイマにも麻薬成分を含有している」という理由で、作付け制限が加えられたため、生産は急減するにいたった。麻薬原料植物の栽培、および麻薬の製造、輸入などの禁止については、昭和20年10月連合軍総司令官より、日本政府あてに発せいられた覚書「麻薬の統制及び記載に関する件」の中にMarihuana(Cannabis sativa L.)の栽培禁止に関する条項があり、厚生省では、この指令にもとづいて20年11月24日、厚生省令第四六号をもって「麻薬原料植物の栽培、麻薬の製造、輸入及輸出等禁止に関する件」を公布した。この省令で、覚書に記載されているMarihuana を印度大麻草と翻訳し、その栽培を禁止した。しかし、このような厚生省令が発せられても、従来から栽培している タイマは、この省令には該当しないものと、農家も役所も解していた。
連合軍の命令
しかし、たまたま京都府下で栽培していたタイマが、連合軍の京都軍政部に発見されたことに端を発し、大麻取締法が、制定されるにいたった。当時、京都府では、事の意外さに驚くとともに、麻薬採取の目的など全く無いことを強調し、京大薬学科刈米、木村両博士の鑑定書を添付するなどの措置を講じたが、21年には、「その栽培の目的如何にかかわらず、また、麻薬有無の多少を問はず、その栽培を禁止し、種子を含めて本植物を絶滅せよ」との指令が発せられた。当時、京都府以外でも、おそらくタイマは、栽培されていたであろうし、京都府はまったく不運という他はない。
当時の記録によると、違反者として摘発された者は四名で、それも農業以外の人二名も含まれ、栽培していたタイマも、一人が数本ということで、栽培というよりは、むしろ前年あたりの種子が自然に生えていたものとも思われる。今にして思えば、笑草ですまされるが、緊迫した終戦直後のことであり、摘発を受けた四名の当時者はもちろん、京都府庁でも、相当困惑したものと推察される。京都府の当時の担当課 経済部蚕糸課 はもちろん、教育民生部、京都府簪察などにも波及し、その任にあたる人々は思わざる苦労をなめさせられた。
このような京都府下での違反事実は、農林省、厚生省などにも報告され、中央においても、連合軍総司令部公衆衛生福祉局、天然資源局などに対し、事情の説明と折衝が続けられた。特産課先荤の方々の中には、これらの折衝に努力され、また当時の苦労の思い出を今日まで持ち続けられる方々も多いことと思われる。
農林省においても昭和21年11月農政局名をもって、終戦連絡事務局経済部長あてタイマ栽培許可を要望するとともに、連合軍総司令部公衆衛生福祉局、天然資源局に折衝を重ねた。この結果、昭和22年2月、連合軍総司令官より日本政府に対し「繊維の採取を目的とする大麻の栽培に関する件」なる覚書が出され、一定の制約条件のもとにタイマの栽培が許可された。
この条件とは次のようなものであった。
- 昭和22年における、繊維の採取を目的とするタイマの栽培許可面積は全国で5000ヘクタールとする。
- 栽培許可県は、青森、岩手、福島、栃木、新潟、長野、島根、広島、熊本、大分、宮崎の12県とし、他の県でのタイマ栽培は許可しない。
- 許可県の県別割当面積は、別途定める。
- 栽培者は、各自の栽培許可申請書を提出し、許可を受けなければならない。
- 栽培制限に関する取締規則を公布する。
以上のような方針を農政局長は、昭和22年2月18日全都道府県に通達した。
昭和22年4月23日には、「昭和20年勅令第142号ポツダム宣言の受諾にともない発する命令に関する件にもとづく大麻取締規則を定める」として、農林・厚生両省令により「大麻取締規則」が制定施行された。
昭和23年には、さらに、取締りを強化するため、前年までの取締規則を法制化するよう連合軍司令部から要請があり、23年7月10日法律第124号をもって「大麻取締法」が制定公布された。
(後編へ続く)